魔法使いは飛べない

「魔法使いさま」
 雪に足をとられてまろんだようなその声が我々にあてられたものだと、初め気づかなかった。降り積んだ雪の中にちいさな鈴を落としたような頼りない声は、ささやかな祈りを胸にしのばせるときのように内的で、誰かを呼びとめるためにはまるで不適切に思われた。魔法使いという呼ばれ方にもまた親しみはなく、森や人ごみのざわめきのように、あるいは遠い国の言葉のように、耳には入れど脳内で自己との間に意味を結ぶことはなかった。我々の道行きをなぞってはたはたと軽い足音を響かせながら、二、三度同じようにおずおずと呼ばれて初めて、それが私たち、正確に言えば隣にいるアマデウスを呼び止める言葉なのだと思い至った。
 魔法使い。
 ちらりと横目で彼を見たが、その表情はちょうど顔の真横にあつらえられた孔雀の羽に隠れていてよくわからなかった。普段と装いを異にし、深い夜のようなローブを纏った彼は、確かにおとぎ話の魔法使いのようにも見えた。フードを目深に被り表情も服装も半ばを隠してなお、彼の姿は簡素な町にはおよそ不釣り合いでよく目立った。
 呼びかけを無視し続けるのは気が進まなかった。立ち止まると、アマデウスも渋々といったふうに足を止めた。声のしたほうを振り返るとそこに立っていたのは町の住人らしい、幼い少年だった。呼び止めようとしていたものが振り返ったことを認めると、彼は掠れてうわずった声で、魔法使いさま、ともう一度言った。魔法使いを前にして、まるでこのあたりの大地のように黒いこどもの瞳に、すばやくひかりが走った。中心を外れてしまえば舗装された道の方が少ないような、森に抱かれたこのちいさな町には魔術師というものはいないのだろうか、魔術に連なる家系ではないのだろう純粋さで、彼は魔法使い、と口にしていた。何かそのような伝承があるのか、あるいはただのおとぎ話を無邪気に信じているのかもしれなかった。
 彼のまなこにはアマデウスが魔法使いに見えているので、当然、弱い生きものが群れの中で力の強いものにおもねるような声音と姿勢が多分に、おそらくは無意識に用いられていた。それでいてこの男は自分を見過ごすことはできないだろうという、ある種のこどもじみた自信のようなものは見受けられず、ただ進退の谷まったところで、通りすがりの人に一縷の望みを託して手を伸ばしただけのようにも感じられた。
 こどもは手にとるべき言葉を探しているのか、躊躇するように目を彷徨わせて、しばらくの間何も言わなかった。彼が何を求めているのかわからずにふたりして黙っていると、それをどう捉えたのか、彼はやはりためらいがちに口を開いた。
「この子を……」
 呼気を白く凍らせた少年は自らの腕の中に視線を落とし、抱えていたものを差し出した。彼の腕の中には白い毛皮のようなかたまりがあり、上着か何かのようにも見えたが、よく見ると、抱えた腕の間からは力の抜けた脚が垂れ下がっていた。動物だった。ねこのかたちをしていた。
「この子を助けてくださいませんか」
 こどもは黒い瞳でアマデウスを見上げた。彼の抱えた動物の、品のいい真白な毛皮にはひとつの汚れもなかった。目に見える傷や出血は認められず、表面を見ただけではどこに問題があるのかわからなかった。外傷ではなく、何らかの病を身の内に抱えているのかもしれなかった。
 レイシフト先の人々とはこの滞在を除けばもう会うことなどないのだろうし、もとより同じ時代の人間ではない。ほとんど気づかれないほどの歪みを修正してしまえばひとときすれ違っただけの異邦人など彼らの記憶からはすっかり消えてしまい、すべては均されて、流されてしまうのだろう。ただ、わずかばかりの情けをかけることを強いて避けるほどの理由もなかった。そうして気まぐれに手を差し伸べること自体が、このこどもの生育や時のゆくすえに影響をもたらしてしまうとも思われなかった。
 果たしてアマデウスの使える魔術に治癒の効果があるものはあっただろうか、記憶を探っても確かな答えは得られなかった。
「おまえ、魔法でどうにかできないのか」
「いや、無理だって……だいたい魔法なんて、誰にも使えないの」
 君はお人好しすぎる、と耳元でささやかれた。気づかぬうちにすっかり冷えきっていた耳にあたたかく湿った吐息が触れて、余計にひえびえとした感覚を残した。彼は呆れたような顔をしていたが、やがて静かに手を伸ばして、確かめるようにこどもの腕の中にある白い毛に触れた。そうしてしばらくの間指先で動物をあらためると、彼はため息をひとつ落とした。
 こどもはうなだれて視線を下ろすと、手首だけを動かして腕の中の動物をさらさらと撫で、起きないのです、と言った。
 ひと息の間を置いて、宣託のように、もう目覚めないよと、アマデウスが口にした。
「死んでしまったのか」
 散らばったものを集めて整理するような声が青く透明な空気を揺らし終えると、こどもはわずかに首を傾げ、考え込むような素振りを見せた。辞書でのみ知っていたことがらが果たして目の前のものとほんとうに一致するのかどうか、考えあぐねているときのようでもあった。こどもが黙ってしまうと話し出すものは誰もなく、風や草木の揺れる音さえ遠ざかって辺りにするどい沈黙が落ち、キンと耳を貫いた。それが次いで氷のかけらになり肺を刺すような心地がし、何かを言おうとした吐息は端から白く凍りついてしまい、言葉には変わらずに口を閉ざした。
「死んで、しまったのですか」
 こどもがようやくそう言葉にしたときには、動きを止めた体の末梢に残っていた熱はすっかり奪われ、手足のすみずみまでが冷やされてしまっていた。全身の血管という血管に冷水を流し込まれ、自らが徒な彫像に変わり果てでもしたようで、こたえることもままならなかった。
 惑いながら手放された問いかけに、アマデウスは彼のやさしさからか、間違えることのできない明確さをもって頷いた。避けようのなく夜が来るように、現の尻尾をやっと掴んだこどもは、その手ざわりに驚いたのか短く息を飲んだが、それだけだった。
 これが、とこどもは窓の隙間を通り抜ける風のような声で、一言、自分に言い聞かせた。かつて抱いていたよりもわずかだけ軽くなったはずの、そのたましいの容れ物が重くて耐えきれないとでもいうように、寒さに赤らんだちいさな指はこわばっていた。たいせつに心を配ったものでも永遠に失われてしまうことはあるのだという事実に、彼はそこで初めて触れたのかもしれなかった。しかしこどもの黒い目はじっとその場にとどまり、いかなる内心も映しはしなかった。
「何か」
「何も」
 無意味な問いへ、無造作にアマデウスは答えた。かつて自らにそう問うたことがあったかもしれないと私は思いながら、しかし彼の答えはまるでそんなことを一度も想定などしたことがないように、ただ冷たくはなく自然の風のように響いた。他の誰もと同じように自らにしか見えないものを見つめ、多くの人間には見えないものさえ目にしていながら、彼のまなこはごく写実的に世界を映して、そこに感傷の入りこむ余地はないのだろう。ものごとは彼の中にもっとも忠実に写しとられ、世界に感傷はない。だから誰がどう嘆こうと、こどもの手の中の生き物が甦ることはない。この世界にいくつもある一方向の過程を、他のすべてと同じように辿って、最後の線を越えたというのならば、それは不可逆なものであり、もうなすすべなどなかった。
「できることがあるとするなら、弔いくらいだ。ああ、それから、花」
 ほらと言って彼が指をひらくと、空だったはずの手のひらの上で花がゆるんだ。朝に誘われて目覚めたような花はまもなく花弁をすっかり広げ、しとやかな輝きを見せた。桃色をした花弁からはほのかに彼のにおいがし、彼の長くしなやかな指はみずみずしくやわらかな花弁のよう、手のひらごと花に変わってしまったかに思われて目を瞬くと、花は手中からこぼれて地面へと墜落していった。安堵の息と同じくして黒黒とした大地に接した花の、桃色はいっそう鮮やかに映え、惜しんで拾えばわずかな熱がこもっているようだった。
 春の日差しに野の花が一斉に開くように、彼のまなざしのもとで花は次々に生まれては笑った。こどもは掌上に開きゆく花を見て嘆息したが、それは花のうつくしさや魔法のような光景に驚き、見惚れていたというよりも、いったいどうしていいのかわからないといったような呼吸だった。
 アマデウスはこどもの腕の中、眠るねこの上にほとほとといくつも花を落とした。
「花があったほうが、さみしくなさそうに見えるだろう……」
 眩しげに桃色の花を見つめていたこどもは、彼の言葉を聞くと、仔犬のような目をして頷いた。

 森に臨んだ小径の隣、細いが決して儚げではない低木の下に、真白いねこの永遠の寝台は作られた。こどもは園芸用のこてで氷の混じった土を掘り返し、アマデウスは数歩ぶん離れたところから、それを見下ろしていた。
 深い窪みにこどもがねこを横たえると、白い体躯はそこだけに降り積んだ雪のようで、まっさらな雪原のように侵しがたく、かたく閉じられた目蓋の下には何色の目があるのだろうか、もう知るすべはなくなった。こどもの裸の手がすくった土が空気を含み、毛布となってねこを包んだ。ひとつの飾りもない墓はまもなく地面に紛れてしまうかに思われたが、わずかばかりの陰がなだらかな山の裾に落ち、そこに眠るもののあることを示していた。
 風が吹いて、アマデウスの金色の髪は雨のようになびき、こどもの霜焼けの頬はいっそう赤く染まった。こどもはこわれやすい硝子細工を扱うように花を手にとると、すべての眠りを妨げることのないほどの静けさでもってそれを地面に置いた。眠りについた幼な子にそよとかかる吐息のごとく、細い指から起こった微かな対流が薄い花びらの輪郭をわずかに変えた。寒さの訪れに葉を落とした低木の足元はにわかに彩りを増し、目覚めるときを間違えた春の息吹は静かなまなこで冬を見ていた。凍えた裸の木の枝が、春を羨むように震えた。冬にひとつのいのちが消えても、それでも再び春は来て、そうしてちいさな墓の上で、ゆたかな青い葉の間に、雪より白い花が咲く。
「魔法使いさまは、空を飛べますか」
 こどもはしゃがみこんだまま、冬の地面には到底調和していない花園を見下ろしてそう言った。初めのときと同じように、自らに問いかけるような、あるいは祈るような言葉だった。見落としてしまいそうにわずかな土のふくらみは、今や花の陰に隠れてしまっていた。少年が土に汚れた指先で花弁に触れると、花は頷くように揺れた。彼は顔を上げることはせず、アマデウスもまた立ったまま、こどもと目線をあわせることはしない。交わらない視線の間を冷たい風が幾度も巡った。
「魔法使いも、飛べない」
 そう言うとこどもは幼い顔を歪めた。そうしてまもなく黒いまなこからいくつも涙を零した。まるい頬を滑り落ちた雫が花を濡らし、地面を濡らし、黒い大地にいっそう黒い染みを作った。音もなく零れ落ちていた胸の内より、まるで初めて泣き声を上げたかのような声が生まれるまで、そう時間はかからなかった。

 青い紗を纏った山の稜線の上に、重い雲は凭れ、白く冴えたひかりの幕が天より降りて一帯を覆っていた。町を出ると人気のなさからか、つめたさがより堪えるようだった。もう長い間、黙り込んだままただ足を前後に動かしていた。歩けば歩くほど寒さが増していくようだった。北へ向かっているのかもしれなかった。
 黙々と隣を歩いていたアマデウスがふと指先を重ねあわせ、感覚を確かめるように幾度か擦った。反射のような行為に寒いのかと尋ねようとした吐息はすんでのところで、「もう寒いなんて感覚いらないのにね」という言葉によって塞き止められた。そこに深い意味はなく、頭に訪れたふいのさざなみのような、瑣末な発話に過ぎないうえに、まったくもっともなことでもあるとは理解できた。それなのに胸に空いたうろに霰が吹き込んだかに思われ、すっかりうろたえたような心持ちになって足が竦んだ。そうして一瞬足を止めたために、たった今まで隣にいた彼はすぐさま後ろ姿になってしまった。もとより返事を期待していない独り言だったのか、振り向きもせず遠ざかる背中にじりじりと焦りが募った。生身の人間と同じような感覚がなくとも構わないという、たったそれだけの言葉、当然の事実が神経をしめつけてやまなかった。
 たとえばお茶会に呼ばれた彼が紅茶を飲み下すこと、音楽室のソファの上でときおり晒される無防備な寝顔と呼吸、楽器やもののやりとりの間、隣りあう花どうしがぶつかるときのようにひととき、触れあう手。確かに触れたことはない温度。
 まるで生物のような、それらの発現のすべてが協同して覆い隠してしまうこと。今日はそれを暴かれているばかりのような気がした。
 こたえる言葉がもつれたのはサーヴァントの身をさえふるわせる寒さのせいだ。
「まあ、必要はないが……悪いばかりという訳でも、ないだろう」
 数歩先を行く背中に言うと、決まりきった戯れだとでもいうように、彼はわらった。
「君もそう思う?」
 頷いたが、彼はそれを見ていなかったので、その仕草にあまり意味はなかった。しかし彼は振り返ることもなく、うん、と言った。黒い後ろ姿から地平線の向こうの夜明けのように金色が閃き、ふと、泣き出したいような気持ちに襲われた。涙をこぼさない瞳の代わりに口唇がふるえた。
「だがこれは少し寒すぎる」
 彼はそう? と言ったが、風がフードからこぼれた金糸をからかっていくと、そうかも、と言葉を改めた。雪が降り出しそうな寒さであったが、頭の上には隠されることのなく青空が広がり、遠くやまなみにかかった雲がこちらへ来るまでにはまだもう少しかかりそうだった。日は眩しいだけで上滑りばかりし、熱は身体から外へ出ていくのみで、そのうちに皆が冬とまったく同じ温度になってしまうのではないかと思われた。厳冬のさなかにいる間はいつも、あたたかい季節が再び巡ってくるのかどうか疑わしくなる。たわいもない不安をふりほどくように足を速めるとすぐに数歩の差はなくなった。
 単調な足音と木立のざわめき、風の吹き抜ける音がするばかりの道のりは、外から見ればまったく退屈に思われただろう。しかし常のように、彼といるととりたてて退屈に思うこともなかった。彼はいつも、そこにいるだけでも何かしらの感情を惹起した。今は、かすかな恐れを。
「立ち止まらなければよかった?」
 ふいにアマデウスが言った。先程のこどものことを言っているのだとわかった。唐突な問いかけは、空白の紙にふと思いついて線を引いてみたとでもいうように聞こえた。いや、とこたえると彼はフードの陰からみなものようなみどりの目をこちらへ向け、薄らと笑みを浮かべた。やはり答えなどわかりきっているような瞳を白い目蓋がはたりと覆った。彼が息を吐くと、呼気に含まれる蒸気は途端に水へと戻り、白いもやを描いた。
「じゃあ、魔法が使えたらよかった?」
 彼の風を切り開くような言葉が耳を、胸を、霊基のすみずみまでを打った。それは消えてしまったいのちの灯火を取り戻すことができたのなら、という問いと同義だった。なすすべのなくこどもに相対していたときには、異なる道を想像する機能など失われてしまったかのように、そんなことはまったく思いもしなかった。そうだというのに、仮想は今や避けようのない過程のように面前に立ちはだかっていた。問いはまるで厳重に蓋をしていた箱の中から取り出された秘密だった。
 かたく閉じられた白いねこの白い目蓋を思い出す。まるで自分があの白いねこを抱いていたこどもになったかのように思われ、並べようとした言葉は互いに結びあうことを拒んで、反発しながらこぼれ落ちた。アマデウスはときおり金色の睫毛でひかりを弾きながら、慎重で臆病な教え子を待つ師のようにただ黙っていた。澱に沈みこんでいく思考につられるように、足どりが次第に重くなる。
「魔法が使えたら……」
 もしも魔法が使えたら、別離というものには無縁であったのだろうか、と思う。そうであれば、こどもの抱いた白いねこは眠っていただけだというように目を覚まし、春も夏も秋も、彼らは同じ時間を見送ることができただろうか。こどもとねこが日差しの中に寄り添って眠る風景を目蓋の裏に思い描こうとしたが、立ち上る像は失われた絵画のように曖昧で、はっきりとした景色にはなり得なかった。回顧はじきに、雪を伴ってくる風のようにはるかな追想を導いて、幾度となく想起したありし日の冬の景色を連れてきた。まぼろしのさいわいに手を伸ばすようにして、もしもあのときに、と考える。空を駆けてどこまでもいくことができ、時の流れに逆らえて、死をも否定できたのなら。そうしたら、こどもは清らかな白い動物と永劫共にあり、すべてが動きを止めるような寒夜に喪失の虚ろが開かれるときはやってこない。そのはずだった。そうであればよかったのではないだろうか。
 けれど何度考えてもわからなかった。思考は堂々巡りをするばかりで、一面の雪の中で遭難を続けるように、まるで無力で、行く先が見えなかった。身に余る重さを抱えてどうにもならないと天を仰ぐような心地がして、魔法が使えたら、という言葉のその先をうまく、思い描けなかった。失ったことばかりが再生され、取り戻せない時ばかりが指先をかすめていく。延々と続く道に疲れ果てたひとのように、こんなことは無意味だ、と感じる。嘆いても、悔やんでも、と思う、そうだ、事実、たらればの話に意味などなかった。私は魔法が使えず、人は終わりをとどめ得ない。時間は進むばかりで戻ることはなく、だから失ったという話に、仮定を持ち込んだところで結果は変わらない。二百年のそのずっと前から、一度たりと覆ることのないさだめは断絶のように今も横たわり、これからも普遍の理としてあり続ける。
 とうとう足は完全に止まってしまう。
「私は……」
 やっとのことで生まれ落ちた声は、産声のごと細かくふるえていた。
「失いたくなかった」
 寒さなどとうに必要のなくなった身体が、冬の中に消えるいのちが、大きな理に従うしかない腕が、さざなみのように静かに、自らをかたちづくるすべてを動揺させる。一度、二度、喪失の痛みを知ったこころが、必然の別れにいつかたどり着くことを理解して、軋むように叫びを上げる。
「私はおまえを、失いたくなかった」
 喘ぐようにかぶりを振る。
「おまえが、失われてほしくなかった」
 今も、と続けた。筋の通らないことだと思う。こたえにならない無意味な願いを綴る言葉が自らを幼いこどものようにしていると自覚しながら、きれぎれの言葉をいくつも並べた。
「だけど、だから……」
 振り向いたアマデウスはわずかに驚いたような顔をした、いや、それもわかっていたという表情なのかもしれない。目が眩むのはひかりのせいなのか、自分の変化なのか、彼の表情がうまく見えなくて目に力を入れた。
 おぼつかない心地で足を踏み出すと、力が抜けたように足元がふらついてくらりと視界が揺れた。頭があつかった。魔力が不足したときにも似た感覚のように思えた。
 疲れたの、と尋ねられた。かえって冴え冴えとしたような目にアマデウスの姿がはっきりと映る。アマデウスの玲瓏の瞳が、森に立ち入った人間を見つめる野生の動物のような真剣さと静けさで、こちらをじっと見つめていた。
「魔力が足りないならさ、あげるよ」
 声は心臓をあやまたず射抜く矢のようにしんと胸を刺した。復讐者の霊基に魔力不足が訪れる頃には彼の霊基など、消えかけたろうそくの火と同じくらい儚いものになってしまっているに違いないと思う。そんなことは彼だってわかっているはずだ。だから、魔力不足などではないはずだった。それとも、レイシフトをしてきてから幾度か、取るに足りない敵性生物と戦闘をしたことで魔力が失われたのだろうかとぼんやり思考を回す。不安定になった内心に引きずられたような不調も、喚起される切り裂いた生物の体液の色や匂いも、見ているだけだった白いねこのなきがらの残像も、いやでたまらなかった。魔力をもらうなどごめんだ。
 首を振って拒否の意を示し、睨みつけたが、彼はそんなことは意に介さないというように、左の手のひらを持ち上げて天に向けた。あ、と思う間もなかった。
 彼の手のひらの中で花が咲く。ひとつきりのいのちから、紛いもののいのちがあふれる。作りものの生から、作りものの生が。ひとつ、ふたつ、花がゆるむ。紛いものでも、と思う。間違いなく生きている。ここに、存在している。彼の手のひらが今、どんな温度をしているのか知りたかった。すべてのあたたかさからひとしく熱を奪っていく、冷気の分け隔てのなさが疎ましくて仕方がなかった。
 左手の中に生まれた花は彼の右手の指につままれ、口へ運ばれ、飲みこまれる。花を含んだ赤い口は再び開くともう空で、次には私に食べろと言う。白い指は薄桃を支える枝となり、春の盛りに迷いなく伸びる植物のように、ひとつの花を運んできた。口唇をゆるるかに風が撫で、それから湿った花弁が触れた。首を振るとそのたび花弁が皮膚を掠り、接するほどにやわらかな花は甘く香を立ち上らせた。
 彼は花のように笑んだ。なくならないから、と言った。
「食べて」
 口に含むと花は刹那に青く苦く香ったが、それらの草の匂いの中に彼の香を認めた途端、受け取る刺激のすべては甘く変わった。ゆっくりと咀嚼すると、ばらばらにほどけた花弁がちぎれてはより集まって、喉に張りついて、うまく飲みこめずに息苦しかった。ようやく飲み下した彼の魔力は腹の底であたたかく燃えた。暗闇の中にひとつだけ灯ったろうそくの火のような、淡淡しく、慕わしい温度は次第に自らの体温、魔力に混じりあって、ついには区別がつかなくなった。口腔が空になってしまうと、彼は次の花を差し出し、今を盛りとひととき掌上を彩る仮初の花畑ははたから摘みとられていった。花々は身体の芯にある炉に次々に火をくべては消えていき、あとには少しのかけらも残さなかった。こんなことはいけないと思い、否定していながら、なお渇きの癒えないように、あまさず飲んでしまいたいともずっと思っていた。見透かしたような顔をして微笑む男の、もっともやわらかい部分をそのまま切り出したような色をした花の、最後のひとつを彼は私の右手にそっと載せた。そうして空になったその手を私の左手に絡ませ、ほらと言った。指に力を入れて彼の手を握る。赤らんだ指先からは何も失われることはなく、冷えた皮膚の奥に熱源のあることも、厚みと重みがあることも理解できた。追憶でも夢想でもない、もっとも確からしい感覚だった。鼻のずっと奥の方に鈍い痛みが走った。
「泣くなよ」と彼が言った。
「泣いてない、だっておまえはここにいる……」
 手が静かにほどかれる。泣いてなどいないはずなのに、喉が詰まったように声は力なくよれてしまい、呼吸がくるしかった。これでは泣いているのと変わりやしないと思ううちに、自分がほんとうに泣いているのかそうでないのかわからなくなった。
 アマデウスは、泣き出してしまったひとの背を撫でるようなやさしさで、サリエリ、と名を呼んだ。
 面を上げれば彼のエメラルドの瞳がチカと輝く。真新しいひかりが網膜を焼く。
 目があった途端、曙光のように声が差す。
「なあ、君は知らないかもしれないけど、僕は魔法使いじゃないんだよ」
 ひとつ、愛したものに導かれて交わった男は、時が移ろうのと共にいつの間にか私の中でその立ち位置を変えていき、今や自らの楔となった。決められていない道程を踊るように駆け抜けていく男は時時で見せる部分を変え、そのたびに感情が揺れた。それでも、どれほどの時間と距離を経ても、どのように思いが変わろうとも、変わらないこともあった。
「知ってる」
 うなずく。間違えるはずがない。
「知ってるよ。おまえは音楽家だ」
「そうだよ。君と同じにさ」
 彼はわらって、だから、と言う。よろこびの気配を含んだ声が雨のように耳を濡らす。
「だから、ずっと消えないでいられるなんて、言えないけど……」
 アマデウスがすべらかに口を開く。
「でも、さあ。また花をあげるよ、君の最後に、ふさわしい綺麗なやつを。約束だ」
 君は存在が約束みたいなものだから、と呟いて彼は右手を開いた。手のひらの上に、花がまたひとつ生まれる。彼はそっと指を閉ざし、それを手の中に包んだ。そうして、これはとっておこうか、と言った。
 うなずきかけて、それから首を振る。花はいい、と言うと彼は瞬いて首を傾げた。
「花よりもっといいものが欲しい?」
 それなら、僕の持っている、いっとういいものを、とアマデウスは恭しく言った。
「君にあげられる魔法なら、持ってるんだ。ひとつきりだけどね」
 結んだ言葉も、彼の表情や声も、その存在が、まなうらに残る閃光のようにいつまでも眩しかった。胸の内に刻むように、永遠でなくとも、と思う。目蓋を閉じてもまだそこにアマデウスがいることだけで、今は十分だった。離れそうになったときにはまた掴めばいい。それなら魔法など使えなくてもできるはずだ。
「魔法なんかじゃないことも、知ってる。……それに、おまえがいてくれるなら、それで、……それだけで、いい」
 言葉の残響が消えてしまう前に、ささやき声よりも静かに降り出したやわい雪が彼の頬を冷やして、わずかに赤く染めた。

 手のひらに残った花を飲む。すべてを飲み下したあとも、鼻の奥には細かな針で浅く刺されたような鈍い痛みが残った。それが薄れて消えてしまっても、飲み込んだ彼のかけらはあたたかなひかりに変わって、いつまでも揺らいで、消えなかった。