世界とは君の不在なり

 漂白された世界はどこまでも白く、まるで一面の雪景色のようだった。それなのに大気も地面も、どこも冷たくはなかった。跪いて大地を触ると、冷たくもあたたかくもなく、骨の表面のようにざらりとした手触りだけが触れた皮膚を伝って返ってきた。立ち上がってぐるりを見渡す。薄明るい空から白いひかりが落ちて、純白の大地に曖昧な影が落ちた。白以外の色も温度もない、洗濯されたばかりのシーツのように清潔で静かで、ひっそりと終わりへ向かう世界。世界の中心にも辺縁にも思える場所に立って終わりゆくところを見ていた。世界の終わりは穏やかだった。まるで眠りにつく前のようだ。遠く霞む地平線の向こうにも、もはや何もないのだろう。空と大地だけが果てなどないかのようにまっすぐ広がっていた。

 汎人類史が終わることは唐突に決まった。同じように続くと思われていた日々は今日か明日には終わりを迎えて、その先は決してやってこない。誰もが自分の生きる世界こそが主役だと思っていたが、実際は静かに打ち切られていく道筋であったらしかった。人理を取り戻す戦いは敗北に終わり、ただひとりのマスターは死に、英霊たちは魔力が切れて消滅するのを待つだけの存在になった。
 もうどこへ行ってもいい、と言われた英霊たちは、退去したり当てもなく旅に出たり、あるいはマスターの亡骸に最後まで付き添っていたいと望んだりした。それらすべてが許されていた。何をしようと自由だった。この場合の自由は特にうれしいものではなかったが、ただ普通の場合の自由よりももっとずっと自由だった。なにしろ責任を負う相手などもはや自分以外にいないのだ。残った人類はカルデアの職員の数名だけで、彼らもじきに死ぬか、それとも異聞帯に上書きされてその存在ごと消えてしまうのかもしれなかった。今までカルデアが摘み取ってきた異聞帯とまったく同じように。空想樹は地表に深く根を張り、真白いキャンバスに別の世界を貼りつけていくのだろうか。仕組みはよくわからなかったが、この世界の行く末だけはわかっていた。避けがたい終わりだ。もはや誰にもすべきことなどなかった。誰もがひとしく決断を迫られていたが、既に終わったような世界で選べる選択肢などほとんどなかった。
 最後の別れに訪れた部屋の隅で見たマスターの亡骸は思っていたよりも綺麗で、疲れきって眠っているだけのようにも思えた。ダ・ヴィンチか職員の誰かが傷心を引きずって死化粧を施したのだろうか、マスターは穏やかでありながらどこか悲しげにも見える顔をしていた。白い寝台に横たえられたマスターの周りには武器やぬいぐるみや花など、英霊や職員が置いていったと思われる品物が添えられていた。部屋の隅には清姫が、まるで彼女自身が別れ花であるかのようにうずくまっていた。
 白いドレスをまとった王妃がマスターの頬を撫でた。透き通るような白い手でマスターの白い皮膚に触れながら、彼女は一粒涙をこぼした。周囲のひとたちは誰も何も言わずに、ただそれを見ていた。彼女がマスターに別れをささやき、その後部屋にいたひとりひとりが無言で、あるいは口に出してマスターに別れを告げた。当然ながら返事はなかった。
 別離の虚しさを誤魔化すようにこれからどうするのかという話になって、白百合の騎士は王妃に従うと言った。黒い外套を纏った医者はイギリスやどこか、フランス以外の国のあった辺りに行ってみようかと思っていると話していた。きっとそこまではたどり着けないと思うけど、と彼は呟いた。ひとりが言葉に詰まると途端に沈黙が落ちた。壊すのが惜しくなるようで、柔らかなシーツの中で眠りと覚醒の間を揺蕩っているような沈黙だった。綺麗に包まれた贈り物を開けるときのように誰もが言い出すのを躊躇っていたが、そんなことは気にしていないかのように、じゃあ、さよならだな、とアマデウスが言った。空気で目一杯膨らんだ風船にさらに空気を吹き込むようなその言葉に、皆どこか悲しげな表情をしながら安心していた。それでもやはりさびしげに王妃は澄んだ瞳をそっと揺らした。王妃はアマデウスを抱きしめ、彼もそっと彼女の背に手を回した。彼が背を丸め、彼女はその頬にキスをした。このようにうつくしいものも消えてしまうのだ。それが世界の終わりで、そういうものではあるのだけれど、やはりそれは間違っているようにも思えた。アマデウスに何かささやくと王妃は身体の向きを変え、快晴の冬空のような瞳にまっすぐこちらを映した。サリエリ先生もさようなら、と彼女は言った。それで別れは終わった。

「僕たちはどこへ行こうか」
 すっかり静かになった廊下を歩きながらアマデウスが言った。寒々としている物の少ない廊下に声はよく響いた。
「どこか行きたいところはある?」
 周囲には我々ふたりしかいなかったので、自分が問われているのだ、と気づく。みどりの瞳は凪いでいて、春の日差しが降り注ぐ泉のように静かだった。もう地表には何もないだろうから、訪れたいと思うような場所は思いつかなかった。もし彼にどこか行きたいところがあるなら、それがどこであれ行けばいいと思った。
「勝手にどこへでも行けばいい、人任せにするようなことではないだろう」
 そう言うとアマデウスはいっそ大げさなほどに呆れてみせた。こんな単純なこともわからないのか、とでも言うような表情はよく見慣れたものだった。彼のそんな顔をほんとうに何度も見ていたが、今までに見たものと同じようで、こんなときでも彼は何も変わらなかった。
「おいおい、きみも一緒に行くから訊いてるんだろ。それとも僕が決めてしまっていいのかい」
 彼は既に決定していたことのようにそう告げた。最初からそう言っていただろう、と言われて思わず息をこぼしてしまう。それはつまり最後を共にするということで、共に旅をすることや戦闘に駆り出されることとは重みが違うのに、まるでそうしたことと変わりなどないように彼は言った。
「……自分を殺そうとする者を連れていくなど、正気を疑う」
 なんとかそれだけ言うと彼は気が抜けたようにわらった。彼のことを害そうとする衝動はとうに消えてしまっていたのにそんな言い訳をしていることを見抜かれているのかもしれなかった。憂いているような瞳で彼は言った。
「僕は至って正気なんだけどね。まあ、正気でも狂気でも同じさ。つきあってくれるかい?」
 他に断る理由を思いつかなかったのに、頷くという簡単なことさえできなかった。
 憂いを湛えているのは彼の瞳ではなくてそれを見ている自分なのだ、と思う。澄んだみどりは湖面のようにこちらを映していたから。いつか来ることがわかっているものでも、もう少し先だと思っていたのでくるしかった。現実感は欠けているのに、その痛みだけが鮮烈で夢ではないことを証明していた。自分のことならばなんだって受け入れられるのに、彼についてはそうはいかなかった。
 アマデウスは返答のないことを不快に思ったり残念がったりしなかった。
「まあ、でも、きみは来てくれると思う」
 彼は言った。そうなのだろうな、と自分でも思った。彼は足を止めなかった。ついでに話すこともやめなかった。私は彼の細かい表情の変化やこぼしていく音をもう少しも逃したくなかった。それを彼もわかっていたのだと思う。

「まだどこかに楽器が残っていたりしないかな。さすがに自分の魔力で編むのは厳しそうだからさ」
 彼が足を止めることなく話し続けるので、それを追いかけたままとうとう外まで出てしまった。白い世界に散乱したひかりが眩しい。目が眩んで、先を行く男は影絵のようなシルエットになる。息を飲むとかすかな風が頬を撫でた。呆けたような彼の声が聞こえた。
「すごいなあ。何もない」
 彼はしゃがみ込むとまっさらな大地を撫でた。触ってみなよと言うので諾々と跪く。触れた地面は骨のようにざらりとしていた。立ち上がって周囲を見ても彼の言った通り、ほんとうに何もなかった。ただ地平線まで真白い大地が抑揚もなく続いていた。
「これで、終わりか」
 その声に彼のほうを見遣ると逆光の中で彼がわらう。弱い風が吹いて金の髪がはらはらとひらめく。彼はもはや失われたうつくしいものたちを映し出しているようなみどりの瞳を伏せた。そうしてまた前を向いた。こちらと目があう。ほんとうはね、と彼が呟く。
「きみが殺してくれるっていうから、ずっと生きていられる気がしてた」
 想像ができなかったのは私も同じだった。私のほうが幾分かたくなに妄執していたかもしれなかった。殺せるものなら、と考えて、殺せるものか、と思った。彼の死として現界したものが彼に死を与えることがないのなら、彼はずっと生きていてもいいはずだった。あり得ないとわかっていながら、開いた目で夢を見ていた。それならずっと彼のためだけの死でもよかったのだ。
「だけどそれももうおしまいさ。もう僕たち、孤高の天才でも天才を殺した男でもなくて、ただのアマデウスとサリエリだ」
 ゆっくりと手足の先からほどけていくように錯覚する。たぶんそう遠くないうちにそれは錯覚ではなくなる。願う者も祈るひともいなくなった今、我々は世界の余韻のようなものだった。残響が静寂に消えるのを待つひとも、もういなかった。いや、違う、互いに最後を待っていた。待っているのだ。最後の音を、少なくとも、私は。終わってほしくないと思いながら待つことしかできなかった。
「まあでも、最後くらいは縛られずに好きにしてもいいかもしれないな、きみは。別に悪いだなんて思ったことはないけどさ」
 立ち止まってしまえば簡単に置いていかれることができたはずなのに、そうしなかったのは自分の意思だ。骨の髄まで燃やすような炎を受け入れないまま眠りにつくことを選ばなかったことも。もし誰かが、自分こそが私を苦しめたのだと思っているのだとしたら、それは思い上がりだ。たとえそれが彼であっても。
 だから彼の先に立って、行こうと言った。
 最後を見届けようと思った。彼か、私か、世界か、最初に終わるのがどれなのかはわからなかったけれど。彼に死をもたらす者だからではなく、私が私であるからだった。彼のことを愛しているからだった。
 アマデウスはそうだね、と言って目を閉じた。わらっていた。
 もはやみどりは彼の瞳にしかなく、それ自体がひかりのような金色も彼のまわりにしかなかった。それでもまだ音はあった。我々が掬い上げるずっと前から変わることなく。足を一歩前に出すたびにそれを見つけた。
 ただ真白いだけの世界を、ひかりの落ちていくほうを目指して歩いた。魔力が少しずつ消えていくからなのか、腹の上のあたりがじくじくと痛んだ。長く歩いたからかもしれなかった。あるいは、別れなどしたくないと思っているからかもしれない。痛むのが腹なのか胸なのかもわからなかった。
「向こうには、音楽があるかな……」
 少しだけ上がった息で彼が言った。きっと、と答えた。この世界に勝利するような物語なのだから、きっと誰か崇高な発見をしたひとがいるはずだった。いなくてはならない、と思った。あはは、と彼がわらう。そうだといいけど、と言う。
 ずっと足を止めないできた彼が立ち止まって、染みひとつない地面に腰を下ろす。緩やかな丘のてっぺんで、周囲が少し高いところから見渡せた。どれくらい歩いてきたのかわからなかった。彼に倣って右隣に腰を下ろした。すぐ隣の男の乱れた呼吸を聞いていた。しばらく黙ったままで息を整えていた。
「僕たち、ふたりで世界を看取ってやろうぜ」
 悪戯っぽくわらってアマデウスが瞳に世界を映す。ふたりでレクイエムでも作る? と彼は言った。終わりゆく世界を眠らせる曲を。
「世界で最後の音楽にしようか」
 なんでもないように目を細めてみせるが、彼の顔には隠しようのない疲労が滲んでいた。もうカルデアからのパスはとうに途切れ、残っている魔力もそれほどないということがわかった。自分の魔力を彼にすべてやりたかった。それで生き延びるための足しになるとは到底思えず、ただわずかでも長く、彼が留まっていられたらいいと思った。ほんとうにそうしたかった。
「きみと僕の共作で、最初に聴くのも最後に聴くのもきみと僕だ。いいだろ」
 けれど彼が屈託なくそう言ってわらうので、私はどうすることもできない。ただ今度は素直に頷いた。頷きながら、素晴らしい曲になるのだ、と思った。彼がその目で見た終末を映すのだから当然だった。既にそこに用意されていたものを手に取るように彼が短いメロディを口ずさむ。うつくしい音の連なりが胸を打つ。それでも、きっとこの曲は完成しないだろうと理解していた。続きを考えようとして、もう時間がないので私は焦る。いいよ、と彼は言った。ゆっくりでいいよ。彼の中にはもう完成したものがあるかもしれないのに、それを答えにしないのでくるしくなって喉がつかえる。瞬きをするとそのたびにアマデウスが透明になっていくように思えて、けれどそれは彼が消えて行くからなのか自分の目や脳がだめになってしまったからなのか、はたまた世界が既に終わり始めているからなのかわからなかった。完成させてくれたならいいのに、私も、彼も、そのほかの誰もその曲を聴くことはないのだった。それなのに私たちは眠りにつかなければならないのだ。それがずっと口惜しかった。